平凡で普通である自分を認めたくなかった。でも、認めたら楽になった
突然ですが、私は世の中的に、とっても普通な人です。最近になってようやく、そのことを自分で納得して認められるようになりました。
それまではずっと平凡で普通なことがいやでした。たぶん中学生くらいの、思春期に入った頃からずっと。社会人10年を過ぎた今の私まで。
取り柄のある素敵な自分になりたいと思って生きてきました。素敵な自分になれば幸せになれると思っていました。
もちろん向上心は大切ですよね。「素敵な自分」はこれからも私の目指すべきものであり、人生のテーマでもあります。
でも「取り柄」ってなんだろう?「取り柄」がなくちゃ素敵な自分じゃないの?幸せになれないの?
‥‥そんなことないですよね。
そうだ、普通のそのまんまの自分で幸せになっちゃえばいいじゃない!
平凡で普通なことを認めたら、とっても楽になったし、幸せに手が届きそうな気がしてきました。
そして、すでに手にしている幸せもあることにも気づきました。
私には私らしさがあって、「平凡で普通」と一言でいっても、まったく同じ人はいない。
平凡で普通の毎日も、同じく平凡で普通に見える他の人と全く同じじゃない。それぞれの人の「平凡で普通」がある。
私なりの「平凡で普通」を極めれば、それも私だけの「特別」だったり、「取り柄」だったりになるなんじゃないだろうか。
平凡で普通であることの持つ可能性
「中庸」という言葉がありますね。
儒教の言葉で、おおよその意味は「かたよりがないこと、過不足がなく調和がとれていること」という状態を表します。中庸は、理想的とされている性質です。
普通であることを良い方向に捉えて極めると、この中庸の状態になれるんじゃないでしょうか。
無理に「今はない新しい特別なこと」を手に入れようとせず、「今持っている普通のこと」を極める。
普通の仕事をきちんとする。普通の家事をきちんとする。あたりまえのように周りにいる家族、友人を大切にする。
そう考えると、今の自分に不足しているものって別にないのに、何を焦ってたんだろうと思えてきます。
「日々を丁寧に過ごす→こころのゆとりが生まれる→日々を丁寧にすごす→…」という好循環
向上心は大切だけど、決して「今のままじゃだめ」なんじゃない。
キラキラしてなくても大丈夫。いいじゃない。気楽にいきましょう。
日々を丁寧に過ごすことで心の余裕が生まれ、余裕があると日々を丁寧に暮らすことができる。心が豊かになる。
そんな好循環がいいですね。
普通で幸せに暮らすライフスタイルの提案をしていくことが、私のライフワークになりそうです。
夢を叶えようと始めたこのブログ。
夢を叶えたいという意気込みはあるけれども、あくまで気楽に進んでいきたい。
だって、肩肘を張ってばかりいたら疲れて、続けられなくなっちゃいますから。
今のままで充分幸せ。さらに幸せを育てるために日々を進んでいきましょう。
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